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数秘術関連等ツイート(2015年8月分)

 

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「思い出」の再生 (2015.8.31 22:18)

 

思い出」を思い出す時はわざわざ過去にさかのぼってその情景を再生するわけではない。

現在」に置かれているプレーヤーを用いて再生する。

つまりその人の「現在」の状況次第では再生される「思い出」にノイズが入ったり、最悪の場合は全く異なる筋書きに書き換えられてしまうこともある。

 

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偏らない「平和」 (2015.8.31 22:08)

 

平和」であるということは「9」的な状態、つまり奇数(混沌)偶数(秩序)も程良く混ざり合い、互いの存在を許し合える状態。

奇数ばかりの社会ならばいつ背中を刺されるかわかったものではないし、偶数ばかりの社会ならば一見平和そうに見えるが最悪「全体主義」へと堕していくことになる。

 

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愛のカオスは悪か? (2015.8.31 21:47)

 

6」という愛のコスモス(秩序)の代表例は「婚姻」だろうけど、そうなると逆数「3」という愛のカオス(混沌)は「自由恋愛」だったり「不倫」だったりする。

偶数性(秩序)が優先される社会では「3」は悪者扱いされるが、奇数性(混沌)が尊重される社会ならばそれは「」になるのだろうか。

 

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シンプルなダイス (2015.8.31 21:02)

 

ヌメロロジカル・ダイスは答えが極めてシンプルに出てくるからいいね。

二者択一法である「ラバーズ」というアレンジメント(配置法)の場合、それぞれの選択肢で出てきた数と、全ての出目の合計を単数変換して出す最終結果の数が同じであれば、その選択肢をイチ押しするというシンプルさ。

 

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「家族」というバケモノ (2015.8.31 14:51)

 

いくら「家族」といえどそれは決してひとまとまりのものではない。

あなたにとっての「家族」、配偶者にとっての「家族」、子供にとっての「家族」、舅姑にとっての「家族」…これらはそれぞれ別の「家族」だし、これらを無理に一つにまとめる必要はない。

家族」という概念自体がバケモノだ。

 

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内の星々 (2015.8.31 11:51)

 

外の星々(宇宙)」というコスモスは変えようのない厳然たる秩序そのものだけど、「内の星々(ヒト)」というカオスは自らの意思で自由に変えられるし、自由にこじつけられる愛すべき混沌なんだ。

 

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安心できる世界 (2015.8.30 14:39)

 

我々は普段「2」という機能、則ち全てのものを「」と「」とを駆使して分類整理することで、この世界で安心して暮らすことができる。

そんな世界を再認識するためには「7」という検証機能が必要ではあるが、「7」という「」ばかりになってしまえば我々はただ気が狂うに任せるだけとなる。

 

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「7」ならではの魅力 (2015.8.30 14:30)

 

ダイナミックかつカオスな思考を表し、底を窺い知ることのできぬ「7」は、そんな「7」だからこそ魅惑的なんだ。

社会に何とか馴染むべく周囲に迎合し、底がすぐに見えてしまうような分かりやすい存在になってしまった時点で、「7」の折角のミステリアスな魅力は消えてなくなってしまう。

 

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「理解」するということ (2015.8.30 13:59)

 

理解」とは「2」という「」で固く結び付けられた二者(○○は△△である)を「7」という自らの思考で一旦解きほぐし、それを再び「」で結び付けることで可能となる。

この「7」を介さずに「2」のままで頭に入れようとするのは、「理解」ではなくただの「記憶」に過ぎない。

 

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もっと自由にこじつけて (2015.8.29 13:29)

 

たとえば『私は「7」の人だから、大いに考え悩むのは仕方ないのね』などというように僕の逆数秘術を使って欲しくはない。

特定の「」に自らを縛り付けるのではなく、全ての「」を用いて自らを余すところなくこじつけられるように色々と考えて欲しい。

あくまでも「考えるツール」なんだ。

 

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考えたくないからさ (2015.8.29 13:19)

 

なぜ占いを信じるのか?

それは考えたくないからだ。

7(考える・確かめる・疑う)」という行為はとてつもなく精神を消耗する。

だからこそ逆数「2(信じたいものを信じる・受け入れられないものは拒絶する)」という行為に走り、思考停止によって得られる安心感を味わおうとするんだ。

 

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「比喩」という「2」 (2015.8.29 13:14)

 

とある概念をより分かりやすい物になぞらえることが「比喩」だが、数で表すなら異なる二者を「」でつなげる「2」的行為となる。

これにより理解はしやすくなるものの、その概念の本質をかえって見失うことにもなりかねない。

この「比喩」を解体して本質を捉え直すのが「7」的行為となる。

 

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帰納法と演繹法 (2015.8.29 12:50他)

 

一般的な占いは「帰納法」の集合体だ。

たとえば「私が鑑定した天秤座の人の多くは○○をやる癖があるから、天秤座は皆○○をやる」という結論に至る手法。

しかし当人の経験則に基づく主観的判断には常に危うさが付きまとう。

この「帰納法」を過信しないことはとても大切なことだと思う。

かといって「演繹法」的な占いも過信はできない。

たとえば「天秤座はバランスの象意を持つから、全ての天秤座の人は優れたバランス感覚を持つ」と結論付ける手法。

この前提条件は神話や伝統によって強化されるけれど、だからといってそれを絶対視するのはやはり危険極まることだと思う。

 

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「順序」からの逸脱 (2015.8.29 12:18)

 

順序」から逸脱する勇気を持つことができれば、「幸せ」に一歩近付けるはずさ。

 

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「7」という風 (2015.8.29 11:55)

 

風が吹いてきて、木を揺さぶる。風は大木をも揺さぶる。わたしたちもそんな木々のようなものだ。つまらない考えに、くだらない考えに、どうしようもない思いに、心を揺さぶられている。』(超訳ヴィトゲンシュタインの言葉より)

思考のカオスであり、動く風である「7」の性を表す実に良い表現。

 

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天才」とは (2015.8.29 11:48)

 

天才」とはとどのつまり「順序」に囚われない存在のことを指す語だと思う。

 

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全てカオスモスのせい (2015.8.29 11:45)

 

この世界はあなたが考えるほどコスモス(秩序)なものではないよ

この世界はあなたが考えるほどカオス(混沌)なものではないよ

カオスモス」な世界がどのように写るのかは、同じ「カオスモス」であるあなたの心がコスモスとカオスのどちらを嫌い、どちらに憧れるかで変わるだけ。

 

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ダイナミックな感情 (2015.8.29 11:32)

 

感情のカオス(混沌)である「3」は、自らのありのままの感情(好悪など)を否定や調整したりせず、そのままの形や勢いで湧き出させる機能を持つ。

それは社会性も倫理も何もかも越えていける、凄まじくダイナミックな機能。

普段逆数「6」で自らを律する人こそ「3」を大事にして欲しい。

 

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好悪の理由付け (2015.8.29 11:23)

 

感情のコスモス(秩序)である「6」の中には、自らの好悪の感情を自らの美意識の中にきちんと整理整頓できるよう調える機能がある。

自然発生的に湧き上がる自らの好き嫌いと、自らが意識して掲げる道徳的美意識とを照らし合わせ、前者を後者に合わせようとする機能。

言わば好悪の理由付けだ。

 

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「考える」とは「観る」 (2015.8.29 11:09)

 

7(考える)」という行為はとどのつまり自らの内側において何かを具に観るという「2」的な行為でもあるんだね。

そのようにして映し出されたコスモスは再び「7」によってカオスへとバラされていき、そしてそれはまた再び「2」によって分かりやすく映像化されていく。

 

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ヒトの使命 (2015.8.29 11:01)

 

ヒトの使命というものがもしあるとするならば、それはそれぞれの「」という理不尽による不均衡をなるべく少なくしていくように努力することだと思う。

 

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奇数で確かめる (2015.8.28 17:47)

 

2(プロミス)」を疑うことでその必要性を確かめるのが逆数「7」。

4(ルール)」を破ることでその必要性を確かめるのが逆数「5」。

6(マナー)」から外れることでその必要性を確かめるのが逆数「3」。

8(コマンド)」に抗うことでその必要性を確かめるのが逆数「1」。

 

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あなたを悩ませるもの (2015.8.27 17:53)

 

あなたを悩ましているのは親でもなく、配偶者でもなく、子供でもなく、友人でもなく、恋人でもなく、同僚でもなく、上司でもなく、部下でもない。

あなたを悩ましているのは、あなたが普段見ないようにしている「もう一人のあなた」だよ。

 

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「美」の前の「美」 (2015.8.27 14:47)

 

ただ何かを生み出す過程が「3」という数であり、それを言葉や技術で修飾したり、より感動的に道徳的に取り扱うという「6」的なデコレーションを行うことにより、「」は初めて「」として人々に認識される。

つまり「3」という現象は「」の前の「」であり、「」を超えた「」なんだ。

 

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縛り縛られる偶数 (2015.8.27 14:00)

 

何かを縛り、何かに縛られることを表し得るのが偶数だけど、分けるならこんな感じ。

2」はプロミス(約束)。
4」はルール(規則)。
6」はマナー(礼儀)。
8」はコマンド(命令)。

 

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どちらも「3」意識 (2015.8.27 12:16)

 

3(遊び楽しむ)」にどっぷりハマることも、「3」を忌み嫌い逆数の「6(身を正して節制する)」へと向かうことも、共に「3」に意識が向かい過ぎているという点では同じ。

 

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ちゃんとリアリズム (2015.8.27 11:13)

 

スピリチュアリズムという血液は、ちゃんとリアリズムという血管に流さないと、出血多量で(社会的に)死んじゃうぞ。

 

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原子の火 (2015.8.27 9:01)

 

今日8/27は日本に初めて「原子の火」が灯った日とのこと。

日付を単数変換すると「8」となるけれど、普段「1(動く火・野火)」との対比で「8」を「動かぬ火・原子の火」と捉えている僕としては実に気持ち良くこじつけられる日付だなぁと思った。

 

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パクチーのような人 (2015.8.26 23:32)

 

パクチー、コリアンダー、香菜(シャンサイ)などといろんな名で知られ、際立った個性で存在感を猛アピールし、好き嫌いが恐ろしくハッキリと分かれる存在。

そんなパクチーのような人が世界をもっともっと面白くしてくれる。

 

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「演技」をする子供たち (2015.8.26 15:20)

 

数秘術だと「3」は子供らしさを表す数として扱われる。

でも注意深く子供たちを見てみると親の顔色を伺いながら心配掛けないように自らを律し、親のために精一杯頑張ろうとする「6」的ホスピタリティマインドの子供もちらほら見受けられるね。

そんな子供たちの「3」はより演技的となる。

 

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輝きの正体 (2015.8.26 14:08)

 

いろんな人が輝いているように見えるかもしれないけど、それはその人が必死に「」を隠しているだけだったりするし、見ているあなたの目が「」に慣れてしまったせいだったりもするね。

 

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見つけやすい逆数 (2015.8.25 23:07)

 

自信に満ちあふれた「1」よりも、自信なく過剰な自制を繰り返す性質(逆数「8」)を身にまとった「1」を見つける方が多分手っ取り早い。

人を柔らかく受け入れる「2」よりも、自らが傷付かないようにとことん疑い抜く性質(逆数「7」)を身にまとった「2」を見つける方が多分手っ取り早い。

 

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新しい「還暦」 (2015.8.25 18:58)

 

ルートナンバー(1〜9)を用いる僕としては、9×9=81歳を長寿時代における「還暦」と捉えている。

 

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コツコツと自己肯定 (2015.8.25 12:42)

 

ここ最近になってやっと「人から仰々しく感謝されるほどではない地味な仕事をただコツコツとやり続けることにより、自己肯定感を安定化させる」という方向性を確立し始めている。

まぁ自らの基本数である「4」というテーマの良さがやっと自身に染み入り始めたってとこか。

 

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占いの「進化」 (2015.8.24 12:41)

 

未来の事態を直接的に当てる占い

事態が起きた理由を探る占い

その事態はどのように捉えることができるのかを考えさせる占い

事態は捉え方次第であることを教える占い

「じゃあもう占いなんていらないや」ということに気付かせる占い

 

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ダイヤの強さと脆さ (2015.8.24 8:35)

 

自らの「1(野生的衝動)」を「8(人工的制御)」によりがむしゃらに抑え込むことで生まれる人格。

まるで高温高圧下で生成される最硬のダイヤモンドのよう。

しかし摩擦には強くても、ハンマーで叩かれれば瞬時に粉々になってしまう。

自らを抑圧し過ぎた人は強さと脆さを共に得る。

 

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「つなぐ」というテーマ (2015.8.23 20:42)

 

今年の24時間テレビのテーマは「つなぐ」という「2」まんまであることを考えつつ、二本のタスキを肩に掛けて走っているランナーを見ている。

ここは逆数「7」的に「つなぐって何?ホントにつながるってどういうこと?」ということをしばし考えてみることにしよう。

 

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ジャッジからの脱出 (2015.8.23 19:57)

 

9」という数が教えてくれるのは「ジャッジなんてものはどっちだっていいんだよ」ということ。

0」という数が教えてくれるのは「宇宙にジャッジすべきものなど何もない」ということ。

9(全)」と「0(無)」に「ジャッジの罠」は通じない。

 

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攻防一体の「壁」 (2015.8.23 11:23)

 

4」の人は自らの意思のみで自己を守る「領域」を作っていくというよりかは、逆数「5」という他者への反発や抵抗の積み重ねによって数多くの「」を作り、結果としてそれにより自己を守る「領域」が自動生成されていくという説明の方がしっくりくる。

いわゆる攻防一体の「」だ。

 

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「二者」まで絞る (2015.8.22 10:06)

 

2」は優柔不断の数などと言われがちであり、常に心理的に二者択一を迫られて大いに迷うパターンも目立つ。

でもそれって選択肢を「二者」に絞ることができていると前向きに捉えてみてもいいかも。

二者まで絞り込んだ選択肢のうちから一つを選ぼうとするのだから、うんうん唸って当然だ。

 

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それも個性 (2015.8.21 12:14)

 

不幸」という個性。

 

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「十字」を掲げる (2015.8.21 8:38)

 

6(フィリア)」という行為は自らの頭上に「赤十字」を掲げるようなものだし、「9(アガペー)」という行為は自らの頭上に「本物の十字」を掲げるようなもの。

ドクターとして有償の愛を施す「6」と、キリストとして無償の愛を施す「9」。

どちらにもそれぞれの領分における美しさがある。

 

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「33」の罹る病 (2015.8.21 8:29)

 

33(→「6」)」の人の中には「キレイなものしか見たくない病」に罹っているケースがあったりする。

この病は「キレイなもの」を生産し続けると同時に「汚物」を大量生産し続けてしまう危険性を秘めている。

自らを「33」だと殊更にアピールしてくる人の場合、特に罹患率が高そうだ。

 

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相手を選ぶ返報性 (2015.8.21 8:09)

 

いくら「6」が「返報性の原則」の元に生きているとはいえ、「3」と同じく感情の数であるということを踏まえると、返報するかどうかの判断は「好きか嫌いか」の感情によるところが大きいということ。

6」が見定める「」は対象への好悪次第で大きく変わっていく。

 

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「意味」はいくらでも (2015.8.20 23:31)

 

「ヤバい」という語にいろんな意味が追加されていくように、たとえば「3」についても各数秘術師の経験に基づく象意(イメージ)がいろいろと追加されていく。

もちろんどちらにもベースとなる意味やイメージはあるけれど、それらをどんどんと膨らませることにより言語は「アート」となっていく。

 

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ダンスフル・ロックフル (2015.8.19 22:50)

 

日々マイペースに「4」な感じで生きる僕としては、楽しげな自分をさらけ出しながら遊ぶダンスフルな「3」的生き方にも惹かれるし、社会通念にケンカを売るかのように暴れまくるロックフルな「5」的生き方にも惹かれる。

どちらも過ぎれば「4(安定)」から遠ざかるが、だからこそ憧れる。

 

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希望と絶望の混じる愛 (2015.8.18 14:38)

 

博愛でありアガペー的な愛である「9」の愛は自己犠牲的・非打算的であるが故に最も報われにくい愛であるとも言える。

だからこそすぐそばにある逆数「0」という「リセットボタン(出家スイッチとも)」に手を掛けそうになる。

愛の希望性と絶望性が共に混じり込んでいるのが「9」という愛。

 

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存在自体が「愛」 (2015.8.18 14:28)

 

自らを愛する「3」、他者を愛する「6」、自他含め全てを愛する「9」という「愛のライン」。

3」の愛には逆数「6」の愛を、「6」の愛には逆数「3」の愛をプラスすることで良い塩梅の愛になっていく。

既に良い塩梅である「9」の愛はアクションの有無に関わらず、存在自体が既に愛

 

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入りきらない「9」 (2015.8.17 22:36)

 

数秘術でもなんでもそうかもしれないけど、自らが築き上げた(もちろん古に習ってだけど)「システム」という箱に森羅万象の全てを入れてみたくなっちゃうんだよね。

それは「8」という人工のシステムに「9」という森羅万象を入れようとするようなもの。

当然ながら入りきらない。

 

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もっと淡白に (2015.8.16 20:44)

 

なんか視聴者の心を揺り動かそうとするようなセリフが多いドラマを観ると「くどいなぁ」などと思ってしまう。

淡白さ」の中に美を見出す余地が欲しい。

 

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啓蒙という「暴力」 (2015.8.16 20:18)

 

社会に生きる者は、その社会に責任を持たねばならぬ」という主張の元、より高い意識を持たせようとする啓蒙活動

しかしそれが醸し出す一種の「崇高さ」故に、反駁を許さぬ一方的な「暴力」として作用する可能性についてもイメージしていかないとね。

 

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どちらも崇高 (2015.8.16 16:10)

 

自らの危険を顧みずに苦しんでいる人を助ける行為はとても崇高なもの。

でも助けようとして足がすくんで動けなかった人がいたとしても、それはそれで崇高なもの。

だって自らを危険に巻き込むことを結果的に避けたことで、換えのきかない自らの存在をきちんと守り抜いたわけだから。

 

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弱い自由 (2015.8.16 15:56)

 

有限な存在として生まれてきた時点でヒトには本当の意味での「自由」は存在しないことになる。

辛うじて存在するのは比較の上で存在し得る相対的な「自由」のみ。

ブラック企業の社員に比べれば僕は自由だ!」「私はあの人よりも貯金があるから、より自由に振る舞える」という程度の弱い自由

 

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「?」こその強み (2015.8.16 15:44)

 

たとえば「1」に見られるような唯一絶対とも呼べる「!」的主体があるとして、その主体がポッキリと折れてしまったなら復活は容易ではない。

むしろ「9」に見られるような主体と客体の垣根も曖昧であり、更に主体そのものもいくつあるか定かではない「?」的主体だからこその強みがあると思う。

 

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「階層」なきSNS (2015.8.16 15:37)

 

ブログを一切やらず、Facebookも積極的には活用しない理由の一つとして「階層」の存在がある。

日記形式の「本文」とそれに対する「コメント」との間に存在する主客という「階層」。

そんな主客が区別されず一緒くたに流れてくるツイッターに僕は「階層なき世界の心地よさ」を感じる。

 

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パラノイア (2015.8.16 15:00)

 

社会性に縛られるという偶数的状態こそが「パラノイア(偏執症)」であるが、これに激しく抵抗を試みる奇数的状態すらも結局は同じ「パラノイア」ということになってしまう。

この縛りから解放されるには、奇数偶数共に綯い交ぜにする「9」的な「スキゾフレニア(分裂症)」的生き方が必要となる。

 

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自らの内での内戦 (2015.8.16 14:53)

 

獣としてのヒト」が持っていた奇数的(動的・混沌)欲望は、「人としてのヒト」へと変化する過程で偶数的(静的・秩序)欲望によりコントロールを余儀なくされる。

こうして生まれるのが「アイデンティティ」であり、自らの内にて繰り広げられる奇数性と偶数性による大戦争の幕開けを告げる。

 

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ヒトのあるべき姿 (2015.8.16 14:38)

 

奇数(1・3・5・7)が教えてくれるのは「獣としてのヒト(脱社会人)」のあるべき姿。

偶数(2・4・6・8)が教えてくれるのは「人としてのヒト(社会人)」のあるべき姿。

そして偶奇両有の「9」が教えてくれるのは奇数にも偶数にもこだわらない「ただのヒト」のあるべき姿。

 

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「役立たず」はいない (2015.8.16 14:25)

 

もし自らを「役立たず」であると思っているとする。

でも役に立っていないことにより、別の誰かが役立つことを間接的にサポートしていたりもするし、逆に他山の石として役立っているかもしれない。

つまり本当の意味での「役立たず」なんて存在しないということ。

 

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どちらも「守る」 (2015.8.16 14:09)

 

自らや家族を犠牲にしてでも社会にいる困窮者を助けようとする「6」的マインド。

あえて困窮者を助けずに自らや家族の安全安心を第一に考える「4」的マインド。

前者の方がより高価値に見られがちだが、「誰かを守っている」という観点では共に等しい価値を持つ。

どちらも大切なマインド。

 

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「7」な自分を赦す (2015.8.16 14:01)

 

考えに考え、疑いに疑いまくる「7」的マインドの持ち主の場合、逆数「2」的な信仰というライン引きをすることにより得られる救いもある。

でも本当の意味での救いとは「2」に走るだけではなく、「7」な自分すらも否定せずその存在を赦していくことにより得られる。

足して「9」になろう。

 

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サヨナラホームラン (2015.8.16 13:00)

 

高校野球におけるサヨナラホームランは、打った選手にとっても打たれた選手にとっても一生涯かかり続ける「呪い」のように感じる。

 

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まだ捨てられない (2015.8.16 0:28)

 

散々「数秘術」を楽しんでからそれをポイ捨てするところまでが「数秘術道」とするならば、僕はまだまだ過ぎるくらいに「」のこじつけ話をつぶやいているようだ。

 

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スピーディー (2015.8.15 22:47)

 

時代がスピーディーになったのは時代の先進性によるものではなく、単にヒトが「待てなくなった」ってことなんだろうな。

 

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不問の幸せ (2015.8.15 22:44)

 

幸せとは何か?」ということを考えなくても済むようになった時点で、それはもう「幸せ」ってことなんだと思う。

 

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誰の元に訪れるか (2015.8.15 21:58)

 

奇跡」はそれ自身を素直に「奇跡」と信じ込める人の元に訪れる。

 

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適応障害 (2015.8.15 21:47)

 

適応障害」という語を見て思うけど、それはあくまでも社会側からの視点であり、個人の視点に立つならばむしろ社会の方が個人を適応させてくれない「厳密さ」を帯びているような気がしてならない。

 

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そりゃ無理か (2015.8.15 21:32)

 

個人の先天的な性質よりも、環境に対する反応の蓄積こそが「性格」と呼べるものであると考えるならば、相手の失礼に対しても「まぁ環境のせいだから仕方がないか」という気にもなるだろう。

無理か。

 

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積み重ね (2015.8.15 12:03)

 

悼む人が悼まぬ人を詰らず、悼まぬ人が悼む人を嘲笑わず。

平和」って結局はこれの積み重ねな気がする。

 

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有益か、安定か (2015.8.14 16:05)

 

人格の形成における二つの道筋。

個人を超えて社会に役立つ存在として自らに常に磨きをかけていく「6」的アプローチ。

社会よりも個人の問題として自らの自らに対する価値を揺るがないようにする「4」的アプローチ。

有益な自己」か「安定した自己」か。もちろんどちらの道筋でもOK。

 

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「真理」はいくつ? (2015.8.14 15:14)

 

そもそも「真理」がただ一つだけなんて、いったい誰が決めたんだ。

真理」を問えるヒトの数だけ「真理」は存在する、というのが僕の考える「真理」だね。

真理」をただ一つだけと考えてしまうからこそ、不要な争いが生まれるんじゃないの。

 

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「魔法」の成果 (2015.8.14 14:13)

 

魔女」であることを宣言しても、「魔女」になろうとしても、社会から罰せられることも殺されることもなく生きていられるこの社会を築いていった人類の過程そのものがとてつもない「魔法」だよね。

後はこの「魔法」が解けないようにしないとね。

 

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「2」という「自我」 (2015.8.14 13:43)

 

僕は今まで「1」に「自我」の意を与えてきたけれど、正しく言い直すならば「自己」なんだと思う。

その「自己」が他者を意識することで翻って自らを認識し直した結果生じるものが「自我」であり、これは偶数唯一の素数である「2」に当てはめるのが妥当なのかもしれない。

 

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「修行」が必要 (2015.8.14 13:32)

 

仏教ってとどのつまりは「9(満)0(無)」であることを教えてくれるものだと思っている。

でもこれに気付くためには「1(自我)」から一番遠い「9(無我)」へと向かう旅を経て、更に「9」から逆数「0」への反転の恐怖とも向かい合わなければならないからこそ「修行」が必要なんだね。

 

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「=」という救い (2015.8.14 13:03)

 

世界の意味や仕組みを「」で結び付けてくれる「宗教」とは正に「2」の救い。

世界の意味や仕組みを延々と考え続けるという「7」のカオスな地獄に垂れ下がった一本のロープであり、それをつかんだ瞬間に「7」の苦しみからは解放される。

でもその「2」のロープすら疑うのが「7」の真骨頂。

 

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ケダモノとしての幸せ (2015.8.13 21:16)

 

脳みそのシワが若干多いケダモノ」であるところのヒトは「ヒトとしての幸せ」を満たしていけばいくほどに「ケダモノとしての幸せ」からはむしろ遠ざかってしまうのではないか、などと考えてしまう。

なんかこう、ヒトとしての幸せを感じるために、必死でパズルを組み立てていくような感じ。

 

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持たされる「夢」 (2015.8.13 20:37)

 

より原始的な社会であれば「」という仰々しいものを持つ必要はないけれど、複雑化していく社会においては個々人が自主的に「」を持つというよりかは、むしろ社会の側から「」を持つことを強制させられている気がする。

実現の有無に関わらずそれらの「」は社会成長のために消費されていく。

 

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「4」と「5」の繰り返し (2015.8.13 14:52)

 

時代」という「9」的な流れは「4(保守)」と「5(刷新)」の繰り返しで構成される。

4」ばかりではヒトは倦み、「5」ばかりでは落ち着けない。

4」が極まれば「5」は自動的に生まれるし、その「5」も「5」のままではいられず自動的に「4」へと変わっていく。

 

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厄」を越える (2015.8.13 14:44)

 

厄年における「」というものを暦や環境のせいと捉えず、そもそも“「厄」とは何か”を捉え直す哲学的行為によって、ヒトは初めて「」を越えられるのかもしれない。

 

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「5」志向という流行病 (2015.8.13 14:38)

 

基本数「6」のサルトルは積極的に社会参加(アンガージュマン)することにより現実を変えようとした。

隣接数「5(革新)」へと猛進したけれど、結局のところ社会も人々も「4(保守)」であり続けようとする強固な志向の前には勝てなかった。

社会における「5」志向とは流行病みたいなもの。

 

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SNS」で気付けること (2015.8.12 13:17)

 

SNS」をゲマトリアすると「7」になるけれど、これは逆数「2」という偶数的オンラインを構築することにより、むしろ奇数的スタンドアロンであることの大切さを痛感させられるツールであると思わずこじつけてしまう。

オンラインで痛い目に遭うことで、スタンドアロンの豊かさに気付ける。

 

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「ケモノ目線」で (2015.8.12 11:11)

 

今まで親に散々迷惑をかけてきたから、これからは私が辛抱して親の面倒を見なきゃ…」などと自らを追い込む人がいるけれど、ヒト以外で親の面倒を見る動物なんていないはずだよね。

ヒトが社会を築く上で作り上げた堅苦しい倫理システムを「ケモノ目線」で見つめ直していってもいいと思うよ。

 

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お遊び」から広がる (2015.8.12 10:19)

 

僕にとっての「こじつけアート」とは、絶対的な意味付けが本来できないにも関わらず、「○○は△△である!」というように「」で固く結び付けてしまった二つのモノを一旦解いて、別の何かと結び付けてみる「お遊び」なんだよね。

でもこの「お遊び」から広がっていく豊かな世界もある。

 

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タロットだって (2015.8.12 9:43)

 

タロットだって「こじつけアート」だよ。

 

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遺された人に残る「個」 (2015.8.12 9:35)

 

16 塔」という「」としての墓碑を叩き壊した後に残るのは、「17 星」に見えるような夜空に輝く「」としての「」のイメージ。

」としての存在の証しをモノに求めるのではなく、遺された人々のココロに求めていくという捉え方。

 

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「塔」とは「墓碑」 (2015.8.12 9:25)

 

僕はタロットにおける「16 塔」を「」として存在した証しとしての「墓碑(死後の名誉の為に建てた建築物でも可)」と捉えている。

だからこそ壊されるべきものなんだね。

 

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タロットと「個」 (2015.8.12 9:17)

 

12 吊るされた男」にて「」としての罰と苦しみを受け、「13 死神」にて「」としての終わりを迎え、次の「14 節制」以降は「」という存在からの超越(集合意識との融合・その後の世界の話)を表す、という捉え方。

 

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タロットの「順番」 (2015.8.12 8:57)

 

現存する最古のタロットとも言われる「ヴィスコンティ・スフォルツァ版」の大アルカナには名称も数字も書かれていない。

となると、この名称と数字はどういう思惑で後世加えられたんだろうね。

またこの数字は本当に「順番」を意識したものだったのかが気になっている。

 

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最後に置く「死神」 (2015.8.11 22:12他)

 

タロットで占う際にどんな問題であったとしても、最後の場所に必ず「死神」の札を置くのっていいね』と以前に妻が言っていた。

良い占い師になりそうだ。

ヒトは最後には必ず死ぬわけだから、どんな問題を占おうが最後の札は必ず「死神」になるのが自然だよなぁ。

」というゴールから逆算していくことで現在の「」を輝かせる。

 

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癒し」からの逃避 (2015.8.11 14:39)

 

誰かを癒したい」という欲と「誰かに癒されたい」という欲の集まりが『癒しフェア』なんだと思うけれど、そんな癒し癒されたいという欲から遠ざかることによって得られる「癒し」もあるんじゃないかとも思ったりするわけで。

 

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ただの「借り物」 (2015.8.11 14:32)

 

この心も身体もただの「借り物」であり、どんなにモノを持ったとしてもそれらは結局「借り物」でしかなく、自分のものなんて何一つない』という「9」的な境地に至ることでラクになる人生もあるさ。

 

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自由と不自由 (2015.8.10 23:36)

 

動的・混沌の奇数を「自由」、静的・秩序の偶数を「不自由」と捉えるとわかりやすい。

1(存在の自由)」⇔「8(存在の不自由)」

3(表現の自由)」⇔「6(表現の不自由)」

5(行動の自由)」⇔「4(行動の不自由)」

7(思考の自由)」⇔「2(思考の不自由)」

 

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「ゾンビ」の可能性 (2015.8.10 22:24)

 

1」が「」であり、「0」が「」であるとするならば、「9」とは「」も「」も境目なく混じり合い、曖昧模糊としている状態。

これはつまり「」と「」からの超越の可能性を表すが、同時に「生きている」ことも「死んでいる」こともハッキリと認識できないゾンビと化す可能性も表す。

 

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存在と無存在 (2015.8.10 21:55)

 

1」とは正に「存在」であるけれど、これは「」という必ずたどり着く場を意識するからこその「存在」であり、だからこそ有限である「」はとてつもなく濃厚なものになる。

対極にある「9」は「存在」と「無存在」、「」と「」とが混ざり合い、仮初めの永遠が薄くぼんやりと続いていく。

 

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「人」と「ヒト」 (2015.8.10 15:33)

 

」はそれぞれ違うけど、「ヒト」はそれぞれ同じもの。

この「」と「ヒト」との間に引かれた「」を越えることができるかどうかがポイントなんだと思う。

この「」を越えられた時、本当の平和が訪れるんだ。

 

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「いい人」からの脱却 (2015.8.10 15:15)

 

世間における「いい人」を数に変換すると正に「9」的な人という感じ。

自我がとても薄く、また自他の境界線もおぼろげなため、いろんな人のお願いを断り切れずに受け入れてしまう。

でもそんな博愛が高じて苦しむ前に、「6」的な功利主義や堂々と返報を求める心構えが必要かもしれないね。

 

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不協和音 (2015.8.10 14:25)

 

自然のリズムと共に生きる「協和音」的な生き方でもいいし、そんなリズムにあえて合わせずに生きていく「不協和音」的な生き方でもいいと思う。

リズムが見事に合わさる「協和音」の良さもあるし、リズムからズレるユニークな「不協和音」の良さもある。

むしろ「不協和音」こそがヒトの自由律

 

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語り継ぐ「戦争」 (2015.8.10 12:50)

 

僕の母(80歳)は終戦間際に米軍戦闘機の機銃斉射に遭遇した。

その時は白い日傘を差していた叔母と一緒に歩いていて、その日傘が目立ったせいでターゲットにされたらしい。

「おばさん!日傘捨てて!」と母は叫び、共に木陰に逃れて助かったとのこと。

語り継ぐことで生き続ける「戦争」。

 

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次元変換 (2015.8.9 22:59)

 

僕もまぁそれなりにオタク的な人間だけれども、二次元のイメージを三次元という現実世界に投影して楽しんだり、またはその逆に三次元での嫌なことをアニメのワンシーンやマンガの一コマの如く二次元イメージに変換して受け流すことがオタクのメンタルヘルス向上術なんだと思うな。

 

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「5」が築く「4」 (2015.8.9 20:07)

 

あまりにも閉鎖的かつ旧守的である「4」的な家庭に育った「5」の人はそんな「4」の壁を破壊して飛び出していく。

しかし大人になり結婚してからは「あんな「4」ではなく、もっと良い「4」を築いてみせる!」などと意気込むあまり、新たなる息苦しい「4」的な家庭を築いてしまったりもする。

 

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シンメトリー (2015.8.9 13:04)

 

全体のバランスよりも個としての美を追求するのが奇数というアシンメトリー(非均斉)。

個としての美よりも全体のバランスを追求するのが偶数というシンメトリー(均斉)。

奇数の行き着く先は個人主義であり、偶数の行き着く先は全体(集団)主義

 

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全く気にしません (2015.8.8 23:20)

 

8」の年である2015年の8月8日ということで「8」のパワーが宇宙にみなぎる的な話を聞くと、じゃあ同じ「8」の年である1988年の8月8日は「8」が多い分きっとものすごかったんだろうな、などと考えてしまう。

ちなみに僕は数秘術師ではあるけれど、そのあたりは全く気にしません

 

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正に「洋」のごとし (2015.8.8 22:26)

 

大きな夢は持たない」「たまたま俳優になった」と宣う大泉洋は「9」の人だけど、大きな流れに身を任せていたらいつも間にやらとてつもないところにまで流れ着いた感じが漂っている。

そんな感じも「」がおぼろげにふわふわ浮かぶ「9」って感じであり、「」しかない「1」とは真逆だね。

 

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七夕結婚 (2015.8.8 14:02)

 

七夕(7月7日)を結婚記念日にする人たちの気持ちはよくわかるんだけど、彦星と織姫は年に一回しか逢えないんだよなぁ。

年中顔を合わせて日々を送る「4」的ルーチン生活ではなく、普段はバラバラでも年に一回のときめきを味わう「5」的なアンチルーチン生活。

7+7→14→「5」だしね。

 

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日常と、ワルツと (2015.8.8 13:50)

 

日常的な四拍子の「4」と踊り楽しむ三拍子(ワルツ)の「3」。

この二つの拍子は12拍目ごとに互いの一拍目が重なり合う。

日常がワルツとなり、ワルツが日常となる瞬間だ。

 

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「金」への嫌悪感 (2015.8.8 11:26)

 

でもそんな「8(コントロール)」的な資本主義システムを是としない「8」の人も多い。

金稼ぎに対する嫌悪感、清貧を讃える行為、ミニマムな暮らしへの憧れ。

これらは自らの「8」的願望を消化しきれないが故の(または願望を現実化できないことへの絶望故の)逃避行為だったりもする。

 

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道具使いのプロ (2015.8.8 11:20)

 

8」はお金や豊かさの数と捉えられがちだけど、それらは自らも含めたヒトやモノ(概念も含む)を「コントロール」するための道具でしかない。

お金を使えば時間すらもコントロールできるし(高速移動)、豊かさという指標は自らの心のコントロールにつながる。

8」は道具使いのプロなんだ。

 

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資本主義の数 (2015.8.8 11:14)

 

ヒトやモノをお金を媒介として「コントロール」することにより、単独(単体)でやるよりもより大きな利潤(成果)を上げていける「システム」を構築していく。

この「システム」を肯定してその内部で忍耐を重ねる、または否定して自ら作った「システム」で権能を振るう。

8」は資本主義の数。

 

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新たな「1」、元の「1」 (2015.8.7 23:02)

 

1」として生まれ、「2」から「8」までの学びを果たし、「9」でそれらの学びの集大成を迎えると共にそれらへのこだわりが薄らぎ、見えない「0」で意識からも消え去り、そしてまた新たな「1」として生まれ変わる。

新たな「1」は元の「1」とは同じものでもあり、異なるものでもある。

 

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モノクローム (2015.8.7 21:03)

 

オーラソーマやカラーセラピーなどを介して逆数秘術講座を受講する人も多いけど、そういえば僕自身はあまり「」というものに頓着しない。

よくよく考えてみたら、僕自身「モノクローム」という二極化した概念が好きだからなのかも。

でも世界も「」もその二極の間に無限に生み出される。

 

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「ホーム」を作ろう (2015.8.7 12:24)

 

自身に閉塞感を与える「4」という「ホーム」を逆数「5」的に飛び出したり破壊したりすることで、本当に自分が寛げる「ホーム」を作り直していくまでが「4」の人の人生のテーマ。

もちろん作り直さずに「5」のままノマド的に生きることも選べるけれど、疲れたなら新たな「ホーム」に落ち着こう。

 

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前向きか、後向きか (2015.8.7 10:37)

 

9」という「諦め」が前向きなものか後向きなものかは、その次の数である「1」という「アクション」の結果により初めて定義付けができるようになる。

1」が成功すれば「9」は前向きな諦め」だったと認識の上書きをし、失敗したならば「9」は容易に逆数「0(虚無的諦め)」へと転化する。

 

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前向きな諦め (2015.8.7 10:25)

 

7」というカオスが「2」というコスモスを求め、そんな「2」に対して再度「7」が活性化し、疲れ切った「7」が再び「2」に救いを求めるというエンドレスゲームの果てに、両者が統合された「9」というカオスモスな「前向きな諦め」に行き着きそうだ。

 

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タナトスを疑え (2015.8.7 10:11)

 

もし「7」的マインドの極致に達した人がタナトス(死の本能)に誘われたのなら、補数「3」というエロス(生の本能)へと全力疾走するのもありだけど、更に「7」を貫いて「おまえ本当にタナトスか?ニセモノじゃないのか?」などと問い詰めるのもありかもね。

 

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「7」への意味付け (2015.8.7 10:00)

 

7」の人や「7」的マインドの人は「私はどんな人間なんだろう?」とか「僕の役割って何だろう?」などのように自らに対して「」をつけまくる。

そんな人には逆数「2」というラベリングやカテゴライズ、つまり「あなたは○○だよ」と断定形で根気強く意味付けしてあげると「」が消えていく。

 

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偶数性の罰 (2015.8.7 9:15)

 

テレビでアメリカの若者の一部の間に流行る奇数的(動性・混沌・チカラ)遊びを取り上げている。

貨物列車の下を通り抜ける、地下鉄のドアにしがみついて移動する、ホーム間を飛び越えるなど。

異常なまでの奇数性の発露には、社会という偶数性(静性・秩序・カタチ)が直ちにを与えてくる。

 

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まずは「8」を探す (2015.8.7 8:08)

 

自らに眠る「1(衝動というアクセル)」を思い出すためには、その発露を妨げている「8(抑制というブレーキ)」の正体を探るのが近道。

「1」を素直に出すことはよくない』みたいに思い込み(または思い込まされ)、幾重にも築かれた「8」を一つずつ見つけては外すことで「1」が目覚める。

 

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「毒親」からの逃避 (2015.8.7 0:00)

 

親によるコントロールを脱して独立する「1」的アクション。

嫌なことにはきちんと嫌と叫ぶ「3」的アクション。

縁切り覚悟で飛び出していく「5」的アクション。

親との絆の必要性を問い続ける「7」的アクション。

毒親」による偶数的な支配から逃れるための奇数的アクションの数々。

 

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見せてこそわかる (2015.8.6 19:43)

 

3(開陳)」は「4(閉塞)」の前にあるのがポイント。

3」の如く一度は皆に見せてみないことには、それが「4」すべきものなのか判断ができない。

3」の結果もし皆にたしなめられればそこで初めて「4」の必要性を痛感できるし、それが個々人の偶数性(社会性)を育てていく。

 

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「9」という「諦念」 (2015.8.5 23:10)

 

偶奇両有の「9」、全ての数を内包する「9」、カオス(混沌)とコスモス(秩序)を両方併せ持つカオスモスな「9」、そして「1(自我)」から一番遠いところにある「9(無我)」だからこそ、「9」が「諦め」という象意に繋がっていく。

あらゆる全てを赦し受け入れる「諦念」こそ「9」の本質。

 

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「隣」へは行きやすい (2015.8.5 22:52)

 

苛烈なる「8(圧制)」に対して、逆数「1(矜持)」により抵抗したり、補数「2(受容)」により恭順したりと両極端な対処策がある。

でも実際にはそこまで思い切れず、隣の「7(精神への逃亡)」や「9(諦め)」という形で処するケースがほとんど。

良くも悪くも「」へは行きやすい。

 

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カオスの処し方 (2015.8.5 12:47)

 

7」というとてつもない思考のカオスを逆数「2」というベールで隠し続けることで社会(偶数体)に弾かれないようにする生き方もあるし、補数「3」という開き直りにより堂々と異端の存在として暴れまくる生き方もある。

2」として生きる益と苦、「3」として生きる益と苦。選択は自由だ。

 

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人を「験(ため)す」 (2015.8.5 12:31)

 

信じる」ために誰かを「験(ため)す」という行為についてのツイートが流れてきたけれど、これこそ正に掛けたロープ(2)が切れないかどうかを確かめる(7)行為に他ならない。

しかし験すだけ験したとしても、ロープに裏切られる「恐れ」は消えず、結局そのロープを手離すこともしばしば。

 

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「4」あってこその社会 (2015.8.5 9:26)

 

3(楽しさ)」の対比としての「4(退屈さ)」。

5(新しさ)」の対比としての「4(変わらなさ)」。

こんな「4」があってこそ、社会は社会という「人類全体の住処」として機能する。

そんな「4」があってこそ、両隣の「3」や「5」という行為がキラキラと輝き始める。

 

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どちらも「パワー」 (2015.8.4 19:39)

 

式根島の海辺で拾ってきた石ころが僕にとっての「パワーストーン」なんじゃないかな。

希少性という「パワー」もあれば、遍在性という「パワー」もあるさ。

 

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不要な表現 (2015.8.4 19:31)

 

パワーユニバース」の一部たる「パワーアース」の更に一部たる「パワーストーン」が力を宿しているのは当たり前と言えば当たり前なのかもね。

そう考えると「パワー」という表現そのものが不要なものになるのがわかるよね。

 

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「6」したいくせに (2015.8.3 23:23)

 

他人に感謝されるような「6」的な人助け行為をためらってしまう人の中には、「そんな面倒臭いことはせず自分に正直に生きた方がいいに決まってる!」などという「3」的な価値観を肯定することにより、「6」からコソコソと逃げている自分を正当化する人もいるね。

本当は「6」したいくせに。

 

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ホントとウソ (2015.8.3 23:15)

 

ホントのことを言って自滅するのが奇数的パターン。

不要なウソをついて自滅するのが偶数的パターン。

ホントかウソかが自分で話していてよくわからなくなるのが「9」的パターン。

 

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「意味」を与える (2015.8.3 16:09)

 

僕は「ヌメロダイス」なるものを普段教えているけれど、これは過去・現在・未来を当てるものではなく、過去・現在・未来に「意味を与える」ツールなんだよね。

意味がわからない」「意味を与えられない」というのがヒトにとって最も避けなければならない恐怖そのものだから。

 

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「証」を求めない (2015.8.3 16:03)

 

絶対的な存在による救済の約束。

それを信じた時点でもう既にその人は「救われた」ということなんだね。

救われるという「」を見てから信じようとすると、いつまで経っても救われなくなってしまう。

」を求めない信仰こそが本当の意味で人々を救済するのかもね。

 

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弥勒菩薩による救済 (2015.8.3 15:41)

 

弥勒菩薩による5,670,000,000年後の救済。

単数変換すると「9」になるのがいいね。

なんかもう「実は既にあなた方は救われているんだよ」感がにじみ出てら。

 

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教育現場 (2015.8.3 13:59)

 

組織体維持のためにコントロールの網を張り巡らせるという「8」的な意思により、個人の持つ熱意という「1」的な意思が殺されてしまうケース。

教育現場で働く人の話を聞くと、ついこういうこじつけをしてしまう。

 

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微量ならOK (2015.8.3 11:46)

 

Q:微量だと自らを救うけど、多量だと自らを滅ぼすものって?

A:ニヒリズム

 

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死ねない「ヒト」 (2015.8.2 19:29)

 

野垂れ死んだケモノの「」は完全なる「」になるけど、お墓やら記録やら記憶やらで死んだ後もあたかも生きているかのような状態にさせられるヒトの「」は「」からはかなり程遠い感じがする。

物体としての「」は容易だけど、存在としての「」は容易じゃないね。

 

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二つの「壁」 (2015.8.2 14:33)

 

4」と「8」には「」の象意を与えることができるけど、「4」の場合は単に壁がその場を動くことなくそそり立っているだけ。

一方の「8」は壁がそそり立つだけに止まらず、自分に向かって抑え込むように動いてくるイメージ。

4」の壁は「5」で飛び逃げ、「8」の壁は「1」で突破する。

 

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=(イコール)」 (2015.8.2 13:26)

 

二つの事柄の間に「=(イコール)」を挟んで安定化させるのが「2(秩序の思考)」という行為であり、その「」を一度取り外して検証していくのが「7(混沌の思考)」という行為。

これを繰り返す反復性こそが「」であるわけだけど、一度据え付けた「」を取り外すのはとても勇気がいる。

 

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個人か、社会か (2015.8.2 11:31)

 

社会の方が個人に合わせるべきと考え、いまいち社会に馴染もうとしないのが奇数的な人。

個人の方が社会に合わせるべきと考え、窮屈な社会の中で自制に徹するのが偶数的な人。

状況に応じて個人にも社会にもシフトできるけど、その分完全にマッチングした感覚が得られないのが「9」的な人。

 

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両隣の「数」を満たす (2015.8.1 23:11)

 

何か特定のことを行う時、まずはそれを「」で捉え、そして両隣の「数」がそれを行うことで満たされるのかどうかを確認してみよう。

たとえば「2」の如く誰かと関係を持とうとする際、「1」という自らの尊厳は傷付かないのか、更に「3」という束縛のないオープン性を保てるのかを問いかけよう。

 

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「性格」と「性質」 (2015.8.1 23:01)

 

僕がいつもつぶやいているのは「」ごとの「性格」ではなくて、あくまでも「」ごとの「性質」について。

いくつかのパターンしか存在しない「性質」はそれぞれとてもシンプルなものであり、それらが組み合わさることで多彩な「性格」となっていく。

性格」については他の人に委ねているよ。

 

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センス (2015.8.1 12:32)

 

センスは「増やし方」よりも「減らし方」に現れるね。

 

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